about tatekouyagura?
history of tatekouyagura
- 1751
- 1873
- 1888
- 1889
- 1890
- 1892
- 1900
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- 1946
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- 1964
- 1966
- 1998
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- 2006
- 2007
- 2009
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1751~1764
宝暦年間(1751~1764年)
糟屋、筑豊、遠賀地方で石炭が売買される -
1873
明治6年
日本坑法発布明治6年(1873年)7月、民営鉱山に関する統一的な鉱業法典として制定された法律。全文八章三十三款からなり、坑物・試掘・借区開坑・通洞・坑業・廃業・製鉱所建築・税納の各章にわたり政府と鉱業者との関係を規定し、鉱業のやり方を示す法律であった。〈以下略〉〔吉川弘文館『国史大辞典 』 〕
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1888
明治21年
海軍予備炭山に指定海軍予備炭山は、平時において、予備として日本海軍が保有している炭田のことで、いったん有事となれば石炭を供給することを目的とした炭鉱である。海軍予備炭山の中でも福岡県糟屋郡の新原炭は優れていた。日清戦争時に海軍艦船が使用した石炭の多くは直営採炭であった。
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1889
明治22年
志免村制施行
海軍予備炭山新原第一坑・二坑開坑。(明治26年に第三坑開坑) -
1890
明治23年
新原採炭所官制発布、佐世保鎮守府所管となる佐世保鎮守府(させぼちんじゅふ)は、長崎県佐世保市にあった日本海軍の根拠地である。九州周辺の防衛と東アジアへの進出のための軍港があり、新原採炭所はその管轄となる。
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1892
明治25年
鉱業条例施行明治23年(1890年) 、日本最初の鉱業法規といわれる日本坑法(明治6年)に代り、明治25年(1892年)6月1日から明治38年(1905年)6月30日まで施行された。従来、国の専権であった鉱業を、一定の条件をもって国民に許可することにし、採掘権を認めた。試掘および採掘、鉱区、鉱夫、税、罰則などを定めていた。
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1900
明治33年
海軍採炭所官制発布(新原採炭所廃止) 、海軍艦政本部に属する艦政本部(かんせいほんぶ)とは、海軍大臣に隷属し造艦に関係する事務を司った大日本帝国海軍の重要な官衙(官庁)であり、海軍省の外局の一つ。海軍採炭所と称す。 (明治34年に第四坑開坑)
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1904
明治37年
日露戦争大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島と満洲南部、日本海を主戦場として発生した戦争。両国はアメリカ合衆国の仲介で、終戦交渉に臨み、明治38年(1905年)9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。
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1905
明治38年
鉱業法公布鉱物資源の合理的開発のため鉱業に関する基本的制度を定めた法律。まだ掘採されない鉱物の管理権を国が有することを前提として、鉱業権、租鉱権、鉱区、鉱業に伴う土地の使用・収用、鉱害賠償などにつき規定。昭和25年(1950年)公布、昭和26年(1951年)施行。今は旧法【明治38年(1905年) 】を全面的に改正したものになっている。
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1906
明治39年
海軍採炭所第五坑が志免に開坑志免において採掘が始められたのは、この年の第五坑の開坑からで、その後も坑口の新設は続き、昭和初期までには採炭の中心地は志免地区に移行した。 (明治44年に第六坑開坑)
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1914
大正3年
第一次世界大戦大正3年(1914年)から大正7年(1918年)にかけて戦われた人類史上最初の世界大戦である。日本は日英同盟によりイギリスと同盟関係にあり、開戦に際してイギリス政府からの要請を受け、連合国側として大正3年(1914年)8月23日にドイツ帝国へ宣戦を布告し連合国の一員として、第一次世界大戦に参戦した。
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1915
大正5年
海軍採炭所第五坑補助坑を二重坑と改称 -
1916
大正6年
海軍採炭所二重坑を第五坑に付属 -
1917
大正7年
海軍採炭所第七坑開坑
第一次世界大戦終結 -
1921
大正10年
海軍燃料廠に属し採炭部と改称、呉鎮守府所管となる海軍燃料廠(しょう)とは、海軍工廠の石炭採掘や石油精製を担当する艦政本部所管。呉鎮守府(現在は海上自衛隊の呉地方隊として継承)とは、広島県呉市にあった大日本帝国海軍の根拠地。明治19年(1886年)4月22日から全国に五つの海軍区を定めた。海軍採炭所は海軍燃料廠採炭部となる
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1931
昭和6年 満州事変
昭和6年(1931年)9月18日に中華民国奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、大日本帝国陸軍の関東軍が南満洲鉄道の線路を爆破した事件(柳条湖事件)に端を発し、関東軍は昭和8年(1933年)5月31日の塘沽協定成立で、満洲(中国東北部)全土の占領した。
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1935
昭和10年
海軍燃料廠採炭部第八坑開坑 -
1937
昭和12年
日中戦争昭和12年(1937年)から昭和20年(1945年)まで、中華民国と大日本帝国の間で行われた戦争。日本政府は、勃発当時は支那事変とし、両国ともに宣戦布告がないまま戦闘状態に突入したので、戦争ではなく支那事変と称した。
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1938
昭和13年
国家総動員法公布国家総動員法は、日中戦争の拡大とともに、 「国防目的達成」のため、あらゆる「人的」および「物的資源」の大幅な権限を政府に与えたものである。この年、海軍燃料廠採炭部第七坑において死者50名の瓦斯爆発事故がおきる。
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1939
昭和14年 第二次世界大戦
昭和20年(1945年)までの6年間、日本、ドイツ、イタリアの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国と、アメリカ、イギリス、ソビエト連邦、フランス、中華民国などの連合国との間で戦われた世界的規模の戦争。61ヶ国が参戦し、戦火は全世界に拡大した。志免町制施行。
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1941
昭和16年 第四海軍燃料廠と改称。竪坑櫓工事着工
直径7mの竪穴の基礎工事の風景です。エネルギーとなる石炭を国内で自給できるように計画される
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1943
昭和18年 竪坑櫓完成
櫓は鉄筋コンクリート造りで、当時の価格で200万円(現在の価格に換算すると約6億6千万円ほど)もの予算をかけて建設される
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1945
昭和20年 第二次世界大戦終結
採炭部は、大戦の終結とともに、第四海軍燃料廠から内務省へ移管後、大蔵省へ移管。その後、運営を運輸省へ移管。運輸省門司鉄道局志免鉱業所と改称。
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1946
昭和21年
運輸省直轄となり、運輸省志免鉱業所と改称 -
1949
昭和24年
日本国有鉄道法施行され、日本国有鉄道志免鉱業所と改称「日本国有鉄道法」は、昭和23年(1948年)12月20日に公布され、翌昭和24年(1949年)年6月1日に施行。そして、38年後の昭和62年(1987年)4月1日に廃止される
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1950
昭和25年
朝鮮戦争。改正鉱業法公布朝鮮半島の主権をめぐり、朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国の間で始った紛争。米軍を主体とする国連軍が韓国側に立ち、北朝鮮支援に動いた。結果、戦争は昭和28年(1953年)7月、北緯38度線付近を軍事境界線として集結した。
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1953
昭和28年
志免鉱業所第六坑を第五坑に統合 -
1957
昭和32年
通産省、新石炭政策を発表志免・須恵・宇美・粕屋各町の志免鉱業所払い下げ反対四ヶ町期成同盟発足。
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1958
昭和33年
石炭鉱業合理化臨時措置法改正公布(第一次改正)昭和28年(1953年)には石炭鉱業は深刻な不況を迎え、合理化による石炭鉱業の自立化をめざす政策が構想され、昭和30年(1955年)7月に石炭鉱業合理化臨時措置法が成立。同法は、竪坑開発を中心とする合理化工事の促進と石炭鉱業整備事業団による非能率炭鉱の買上げ整理というスクラップ・アンド・ビルド政策によって、新しい炭鉱への集約を目標にしたもの。
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1959
昭和34年
運輸大臣、志免鉱業所の国鉄経営分離を認可。
配置転換開始 -
1964
昭和39年 日本国有鉄道志免鉱業所閉山。
志免炭鉱整理事務所開所。(昭和62年(1987年)には、その事業を日本国有鉄道清算事業団が承継し、その後新エネルギー総合開発機構(のちのNEDO)へ承継)。また、この年はアジア地域で初めて東京オリンピックが開催された。
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1966
昭和41年
竪坑閉塞 -
1998
平成10年
志免町文化財審議会が町長へ「志免鉱業所竪坑櫓の保存・活用に関する要望書」を提出 -
2001
平成13年
土木学会が竪坑櫓をAランクの土木遺産に指定 -
2006
平成18年
竪坑櫓の敷地が志免町の所有となる。
(独立行政法人新エネルギー・産業技術総合開発機構から譲渡) -
2007
平成19年
国の有形文化財に登録(7月31日) -
2009
平成21年
国の重要文化財に指定(12月8日)
donation
鉄筋コンクリートでできた建物ですが、神社仏閣の重要文化財と同様に悪いところは取り換え、失ったものは復元し保存をしていかなければなりません。
「竪坑櫓応援寄附金」でお寄せいただいた寄附金は、貴重な財源として、竪坑櫓の保存に関する事業に使わせていただきます。
design
猪俣 昇(いのまたのぼる)
西暦 | 月日 | 経歴 |
---|---|---|
明治29年(1896年) | 8月14日 | 山口県防府市の岡村家に生まれる |
大正11年(1922年) | 九州帝国大学工学士合格 | |
大正11年(1922年) | 4月21日 | 海軍技手、燃料廠附(採炭部附・新原炭鉱着任) |
大正12年(1923年) | 4月30日 | 海軍技師、燃料廠採炭部員 |
昭和3年(1928年) | 8月10日~1929年7月19日 | 欧米各国出張 |
昭和4年(1929年) | 8月6日 | 海軍燃料廠採炭部員 |
昭和8年(1933年) | 4月16日 | 海軍燃料廠採炭部業務科長 |
昭和13年(1938年) | 11月22日 | 海軍燃料廠採炭部採鉱科長 |
昭和16年(1941年) | 4月21日 | 第四海軍燃料廠採鉱課長(1942.11.1依願免) |
昭和17年(1942年) | 11月1日 | 海軍技術大佐・第四海軍燃料廠採鉱課長 |
昭和18年(1943年) | 6月24日 | 竪坑開坑 |
昭和20年(1945年) | 5月1日 | 海軍技術少将 |
昭和20年(1945年) | 11月1日 | 予備役 |
昭和20年(1945年) | 12月1日 | 運輸省門司鉄道局志免鉱業所長 |
昭和21年(1946年) | 12月1日 | 退職 |
昭和44年(1969年) | 3月2日 | 死去 |
明治29年(1896年)8月14日 | 山口県防府市の岡村家に生まれる | |
大正11年(1922年) | 九州帝国大学工学士合格 | |
大正11年(1922年)4月21日 | 海軍技手、燃料廠附(採炭部附・新原炭鉱着任) | |
大正12年(1923年)4月30日 | 海軍技師、燃料廠採炭部員 | |
昭和3年(1928年)8月10日~昭和4年(1929年)7月19日 | 欧米各国出張 | |
昭和4年(1929年)8月6日 | 海軍燃料廠採炭部員 | |
昭和8年(1933年)4月16日 | 海軍燃料廠採炭部業務科長 | |
昭和13年(1938年)11月22日 | 海軍燃料廠採炭部採鉱科長 | |
昭和16年(1941年)4月21日 | 第四海軍燃料廠採鉱課長(1942.11.1依願免) | |
昭和17年(1942年)11月1日 | 海軍技術大佐・第四海軍燃料廠採鉱課長 | |
昭和18年(1943年)6月24日 | 竪坑開坑 | |
昭和20年(1945年)5月1日 | 海軍技術少将 | |
昭和20年(1945年)11月1日 | 予備役 | |
昭和20年(1945年)12月1日 | 運輸省門司鉄道局志免鉱業所長 | |
昭和21年(1946年)12月1日 | 退職 | |
昭和44年(1969年)3月2日 | 死去 |